Friday, December 17, 2004

宗教と信仰

  司馬遼太郎のエッセイ全集を昨年末 から読んでいる。非常に広い分野について深く教えられることが多い。この歳まで浅学の身できたことに恥ずかしさを感じさせられる。つい最近読んだ箇所に 仏教のことがあった。随所に彼の仏教に関する含蓄が出てくるが、今回の箇所は特に考えさせられる。

 現在日本で信仰されている仏教は、原 始仏教すなわちインド仏教とはたいへん違ってきている。中国を経由して日本に入ってきたときにもうすでに大きく変っ ていた。それに加えて日本で歴史を経るにつれて、多くの仏教僧によってつくられてきたという。司馬氏だけの説ではなく、他の資料や研究者たちによっても日 本仏教は原始仏教とは大いに異なっていることが指摘されている。

 司馬氏によると: 一番基本的なこと死については、人が死ぬと全部「空」になる。本来、生身のあいだは解脱を目指し、死ねば「空」に帰すと いうのが仏教。霊魂というものは仏教にはない、と断じている。仏教とお墓は関係がない。とも述べている。わたしはこの司馬 遼太郎の見方が正しいと思う。それがどうだ、多くの現代人にとっては仏教に一番関係が深い事がお墓であり、遺骨や戒名である。

  門外漢で ある者が、仏教について云々するのはまことに失礼とはおもうが、それはキリスト教についてもそのようなことがあると思うからだ。いまはクリスマ スの季節。クリスマスにちなんで行われている多くの事柄が、本来のキリスト信仰とは関係がないことはお互い承知の上であろう。しかし、クリスマスではない 大切な信仰や教会、教義や説教についてもどこかで違ってきてはいないか?

 それでも信じるキリスト信徒たちの「頼るところ」は聖書であろ う。でも聖書の内容も写本や編纂、訳文によって変化している。解釈に違いもある。われわれ の神が神として働かれ存在を示されるのは、やっぱり祈りを通してしかない。祈りをとおして、祈る者の心に触れ動かし、また人の思いや外部の事象にも働いて くれなくて は神ではない。
 

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