Saturday, April 26, 2008

信仰の世界の「言葉」

 文芸春秋の五月号に掲載されていた藤原正彦の論説(対談)を読んだ。記事の内容についてここでは取り上げないが、その中で同教授は人に必要なことの一つに、「野心」を持つことを説いている。

 「野心」。日本語らしく良く響く言葉だ。自分も長年にわたって慣らされてしまっていたが、いまのキリスト教の世界では、信仰上のキーワード(自分も外国語にかぶれてしまっている)に対して、あまりにも安易に英語を使いすぎているのではないか、とふと気がついた。

 その一つが、非常によく使われる“Vision”。日本語に訳すと「幻」となってしまうのか? すこしボヤけてしまうので、多くの人は「ビジョン」とそのまま使う。聞く人たちは、それぞれ「夢」や「目標」とか、「大望」とか、「希望」とか・・自分なりにしっくりくる言葉を当てはめて受け止めているのであろう。あるいは、「ビジョン」という言葉そのままで脳内で理解できているのか?

 これまで教会で「野心」ということばで、ビジョンのことを言った牧師、伝道者はあまり聞かない。信仰の世界では、いまさら言うまでもないが、ことばは極めて大事である。一つの概念、キーワードに対して、どの言葉を当てるか。

 いまは最も使用されている一例として、ビジョンを挙げたが世の教会関係の指導者たちには、もっと日本語に対する感覚・感性を高めてほしい。安易に英語をそのまま使用したり、日本語の正しい言い方を無視した外国語“訛り”の言い回しなど、うんざりする。言葉は力であるから。
 

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