Tuesday, May 06, 2008

忘れていた実

 「あなたがたが わたしを選んだのではない。わたしが あなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは行ってを結び、その実がいつまでも残るためである。」

 よく取り上げられるヨハネ15章16節である。この聖句の前半は自分にとって、取り違えてはいない。しかし、後半のほうは少し理解が足りなかったというか、偏っていたようにも思う。「実」の意味を正しく捉えていなかった。
 
 教会の流れの中にあっては、この実は宣教・伝道の結果としての実。すなわち、具体的には救われる魂が起こされる、魂を獲得する、という「収穫としての実」を実の代表的なものとして捉えてしまっていたのではないか?

 もちろん、この実の捉え方は間違ってはいないだろうが、それが金科玉条のものになっているとしたら、???。

 実とは、人が食べるためのもの。食べるのは自分ではなく、他者が食べて生かされる実。他者の祝福になるもの、そのような実である。きのうの説教から、改めて、気がつかないでいた大切な事を教えられた。

 実の意味を、白川静著「常用字解」で調べてみた。それによると、もとの字は「實」で、「宀」と「貫」を組み合わせたもの。宀は先祖の霊を祭る廟の屋根の形であり、實は貝の貨幣を貫いて綴り合わせたもののこと。ぜにに刺し通した貝貨を廟に供える形が實で、豊かな供え物を実という、との説明があった。「実」の意味が、実によく解説されている。

 わたしたちの実は、神に捧げられるもの、神に喜ばれるもののことである。他者が生かされ、魂が救われ、祝福されることが本当の実なのである。遅まきながら、真理・真意を理解し直した。
 
 

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