Sunday, January 02, 2005

だれが何を語るか

 元旦礼拝と2日の主日礼拝に出席し、主任牧師の説教をきいた。その教会では説教をメッセージという。メッセージは神からのメッセージという意味で、説教をメッセージと呼ぶことにしたのだろうか。
 
  本当に神の声ならばよいのだが、人間の声をマインドコントロールよろしく神からの声にしてしまうことだけは勘弁願いたい。2005年の「施政方針」がいろ いろ打 ち出されたが、個人的恣意的なものでなければよいと願う。伝道第一はそうであろうが、牧会的施策や悩める者への配慮の施策(ケア)が何も感じ取れない、聞 き取 れないのは自分だけか? このように発言すると、“不信仰”、“不従順”の言葉の下に切り捨ててしまわれる寒い世界がある。
 
 “誰が語るか”、語る人物を問題にするのではなく、“何を語るか”、語られる内容を問題にすべきというとらえ方が基本であろうが、教会の説教/メッセージだけはそのように受け取れない。やはり語る人の人となりが大きくもの言う。

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