Friday, January 21, 2005

“日本一”

 自分のブログのリンクから、たまたま一つの教会にたどり着いて驚いた。その教会は日曜日の朝6時30分から礼拝を始めているのである。しかも、続いて9時20分からと10時 30分からの礼拝がある。午前中3回の礼拝である。教会の名は大阪のぞみ教会という。

  「うちは7時、9時、11時と礼拝している。こんなに朝早くから礼 拝を始めている教会は日本では他にないだろう」といっている大きな教会がある。それを聞いたときは「そうだろうなぁ」と納得した。しかしきょうは驚いた。 そこより早くから礼拝を始めている教会が日本にあったのだ。そこと同じく午前中3回!  世間を充分知らないと恐ろしい、自分のところが一番と思い込んしまいがち。

  また、その大教会はこんなこともよく言っている。「うちは日本一祝 福された教会だ!」最初は、「日本一祝福されていると確信している。感謝しましょう」というようなトーンだった。次いで、「うちは日本一祝福された教会 だ!」。そして時には、“祝福された”が脱落して「うちは日本一の教会だ!」になってしまう。

 そんな教会になりたくない。いつもこのように神のご託宣のように聞かされていると、信徒たちも本当にそうなのかと思ってしまう。神の恵みを感謝することは当然だが、自分たちが勝れているというような錯覚を持ってしまう危険がある。

  どうして「日本一」でなければならないのか、「日本一。。。。」と 言わなければならないのか。「限りなく祝福を受けている」とか、「たいへん大きな祝福を。。。」でいいのではないか? 「日本一」というと他者と比較して 自分が勝っているという自己満足に陥りやすい。また日本一でなければ、そうなるように頑張るのか。いずれにしても他者と比べる思いが強いように見える。

  「他と比べ、劣っていたらいやだ」「比べる対象と同じようになりた い」。この人間的な思いは、人間の原罪に通じるのではないか。アダムが最初の罪を犯したのも、神と同じように知恵ある人間になりたいと思ったからではない か? 最初の殺人、カインを殺したのも、カインの供え物が嘉みせられ、自分の供え物が受け入れられなかったからではなかったか。自分のこころを吟味せず、 ただカインと比べ自分がカインに“劣った”というその思いにかられたからではないか。比較は嫉妬をもたらす!

  自分が祝福されたら優越感を感じるのではなく、謙虚にただ主のあわれみに感謝して受け止めることができる者でありたい。言うは易く、行うは難し。「あなた は高価で尊い」。神は、「だれよりも高価」とはおっしゃらなかった。ただ「あなたは高価で尊い」。これで十分!
 

2 Comments:

At 9:02 AM, Anonymous Anonymous said...

本当ですね。比較することは、劣等感を生み出しますが、劣等感とは高慢の裏返しですね。そもそも、相対的な(比較する)価値観は不毛な論議を生み出すだけです。絶対的な神の言葉による価値観こそ、平安をもたらすのではと思っています。

 
At 8:07 PM, Blogger SValley said...

Kazenotayoriさん、コメントありがとうございます。別途メールを差し上げました。詳細はそちらをごらんください。

 

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