Saturday, September 29, 2007

近頃のキリスト教会(教界)の風潮に想う

先日、中川健一師のメールマガジンを受信した。同師のマガジンから教えられることは多いが、読んだら忘れることも多い。そこで、大切な事を自分で受け止め直して、自身のブログに再掲することにした。(著作権法も、この程度ならお目こぼしとなるのではないか?と勝手に考えて。。。)

中川師は次のような傾向が、キリスト教界に広まりつつあることを憂いておられる。
(1)論理よりも感情が優先される。
  今のクリスチャンには、礼拝や集会の価値を、感動したかどうかで決める傾向があります。

(2)客観的なものよりも主観的なものが優先される。
  客観的に真理であるかどうかよりも、「私」がどう感じるかが選択の基準になっています。

(3)神中心よりも人中心に聖書を読む。
   神の意図よりも、「私」が幸せになることに、より大きな関心が払われています。
自分も教会で説教を聞いたとき、また外部の特別な集まりに参加した時、このような流れに流されていたようにも想う。特に毎週の礼拝説教では感動の有無がまず第一のバロメータになっているのではないか。

また、「私」が幸せになることは、宗教そのものではないか? もう少し思い巡らしてみよう。
 

Tuesday, September 25, 2007

「次のブログ」の非表示

このブログのページの最上部にあるNavibar内の「次のブログ」を非表示にする方法が分かった。といっても、「次のブログ」だけを非表示にすることはできないのである。Blogger/Google側でそのように仕組んでいる。

#navbar-iframe {height:0px;visibility:hidden;display:none}というコマンドをcssの最後に挿入するとNavibar 全体が消えるように設定されているのである。ヘルプを調べていて見つけた。以前の方式のBloggerでは、このNavibar を比較的自由に修正できたのに。。。

Navibar 全体を消してしまうと、ページのデザイン上、何だか締まりがない。やまなく現状のままで使用する。Bloggerブログには、ページがすっきりしている等それなりの利点もあるので活用したい。

 

救いとは?

イエス・キリストを信じると救われる。日本の救いのために! リバイバルのために!。。。とお互い、言ったり祈ったりしているが、「救われるとは、救いとは」どういうことか? 念のために整理しておきたい。

いくつかの辞典や本をひもといた。それらによると:
●救いというのは、死の領域から命の領域への完全な意味での移行である。すなわち、復活、聖化、勝利、充実、赦しである。(聖書大辞典/教文館)
●病、罪、神からの離反、怒り、闇、敵、悩み、悪しきこの世から引き(助け)出されること。(同辞典)
●「何から救われるか?」−−死の危機、病気、悪霊つき、罪責、神から遠くあること、永遠の滅びからである。(葬儀の神学序説/井上彰三著)

自分の内では、永遠の滅びからの救いを一番大ききなものとして受け止めていた。こうして改めて受け止め直してみると、宣教・伝道活動の意義や説教の意味がよく分かってくる。
 

Saturday, September 22, 2007

Blogger、ああカオスの世界!

1年ほど投稿をご無沙汰していた。きょう久しぶりに覗いてみて、Googleアカウントに変更した。このBloggerは、わたしのブログの原点ともいえる。

ずいぶん様変わりしていた。便利よくなった。処理スピードもアップしていた。良いことずくめのようであるが、画面トップの「次のブログ」をクリックするととんでもないブログに当たってしまう。その確率が3年前に始めた当初より遥に高くなった。本当に玉石混交、味噌もXXも一緒、現実の世界を現しているようだ。。。

でも、自分では、いま使っているテンプレート(少し手直し済み)が好き。自分が発信したい内容にしっくりするから。近いうちに「次のブログ」のクリックが削除できるものなら、画面から削除したい。
 

ワン・フレーズ・メッセージ

一時、ワン・フレーズ・XXXXXなる言葉が流行った。先日、出席した教会の礼拝説教で、韓国のハー・ヨンジュ牧師の言葉だとして「聖書を一言で表すとすれば、"Come and Go!"だ」ということが引用された。みごとな要約である。

ハー・ヨンジュ牧師の解釈によれば、聖書の言わんとすることのエッセンスは、「人々をキリストの下に招き、回心させ、そして福音を伝えるために世に遣わす」ということなのであろう。聖書を徹底的に読み、学び、瞑想した後に与えられた最重要な言葉なのであろう。