Thursday, January 27, 2005

聖人

 教会では「信徒」の代わりに、「聖徒」という言葉で表現することがある。きょうのW.バークレーの「1日1章」に、人生の目的を「聖者になること」としていた人のこと、そして《聖者》の定義があった。
1 聖者とは、その内にキリストが再び生きておられる、そういう人間である。
2 聖者とは、人びとが神を信ずるのを容易ならしめる人間である。
3 聖者とは、自己を通して神の光を輝かしめる人間である。

 「聖者になることは、まさにキリストとともに人生の道を歩むことにほかならない。そして、これこそ人生の本当の目的なのである」と結んでいる。

  「聖人、聖者、聖徒」、これは "saint" の訳であろう。聖者というと、畏れ多く近寄りがたいが、「主の聖徒」とはよく使われる表現だ。キリストにしたがう者、5重の福音に生きる者として、いつも 上の3項目を心にとめて、人生の目的としてはるか彼方にはあるが、一歩づつ祈りつつ目指していきたい。

Friday, January 21, 2005

“日本一”

 自分のブログのリンクから、たまたま一つの教会にたどり着いて驚いた。その教会は日曜日の朝6時30分から礼拝を始めているのである。しかも、続いて9時20分からと10時 30分からの礼拝がある。午前中3回の礼拝である。教会の名は大阪のぞみ教会という。

  「うちは7時、9時、11時と礼拝している。こんなに朝早くから礼 拝を始めている教会は日本では他にないだろう」といっている大きな教会がある。それを聞いたときは「そうだろうなぁ」と納得した。しかしきょうは驚いた。 そこより早くから礼拝を始めている教会が日本にあったのだ。そこと同じく午前中3回!  世間を充分知らないと恐ろしい、自分のところが一番と思い込んしまいがち。

  また、その大教会はこんなこともよく言っている。「うちは日本一祝 福された教会だ!」最初は、「日本一祝福されていると確信している。感謝しましょう」というようなトーンだった。次いで、「うちは日本一祝福された教会 だ!」。そして時には、“祝福された”が脱落して「うちは日本一の教会だ!」になってしまう。

 そんな教会になりたくない。いつもこのように神のご託宣のように聞かされていると、信徒たちも本当にそうなのかと思ってしまう。神の恵みを感謝することは当然だが、自分たちが勝れているというような錯覚を持ってしまう危険がある。

  どうして「日本一」でなければならないのか、「日本一。。。。」と 言わなければならないのか。「限りなく祝福を受けている」とか、「たいへん大きな祝福を。。。」でいいのではないか? 「日本一」というと他者と比較して 自分が勝っているという自己満足に陥りやすい。また日本一でなければ、そうなるように頑張るのか。いずれにしても他者と比べる思いが強いように見える。

  「他と比べ、劣っていたらいやだ」「比べる対象と同じようになりた い」。この人間的な思いは、人間の原罪に通じるのではないか。アダムが最初の罪を犯したのも、神と同じように知恵ある人間になりたいと思ったからではない か? 最初の殺人、カインを殺したのも、カインの供え物が嘉みせられ、自分の供え物が受け入れられなかったからではなかったか。自分のこころを吟味せず、 ただカインと比べ自分がカインに“劣った”というその思いにかられたからではないか。比較は嫉妬をもたらす!

  自分が祝福されたら優越感を感じるのではなく、謙虚にただ主のあわれみに感謝して受け止めることができる者でありたい。言うは易く、行うは難し。「あなた は高価で尊い」。神は、「だれよりも高価」とはおっしゃらなかった。ただ「あなたは高価で尊い」。これで十分!
 

Saturday, January 08, 2005

変えられた?真の信仰

 昨日ネットでキリスト教関係の特異なサイトを見つけた。それは「角笛/終末の警告」というサイトである。自分はこのサイトが語ること全部に与するものではないが、このような“見方”もあるということを知っておいてよいと思う。

  一見きわもの的サイトのように見えるが、説得性のある記事も一部掲載されている。判断は読者に委ねられるべきもの。ただしキリスト教初心者には難解かつ危険かもし れない。サイトの制作者または管理人本人か、もしくは非常に近い存在と判断できるK牧師の説教集のサイトもある。 この牧師の説教から立場・見解をある程度判定 できるが、それほど偏った伝道者・牧師とはおもえないが。。。 

 ご聖霊様、私ども迷える羊たちをあわれみたまえ、働きたまえ!

Wednesday, January 05, 2005

5日の箴言

 1月5日は箴言5章から:
あなたの泉に祝福をうけさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。彼女は愛らしい雌しか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。
 
 この箇所は滅多に教会の説教では取り上げられないであろう。しかし、現代社会の風潮の中では夫にとっての大切な教え。

Monday, January 03, 2005

新訳 新約聖書

 ことしの新約聖書通読は、より新鮮な思いで聖書を読むために、岩波書店版新約聖書翻訳委員会訳の「新約聖書」を読むことにした。昨日、恒例の愛娘との横浜デートの際にこの聖書を購入した。昨日、今日と早速読み始めた。やはり思いを新たにして読めるのはよい。

 “聖書は誤りなき神のことばです!” このことばを好み標語のように扱う伝道者・牧師もいるが、真実はどのレベルでそうなのか? 信徒それぞれとらえ方が違うであろう。旧訳には明らかな誤訳や写本原典そのものの誤りもあるという。それでも
教会で使っている聖書の一字一句をそうだと信じ、また信じさせようというならそれこそ誤りであろう。そうではないことを願う。

   聖書は“誤りなき神”のことばです!

                          アーメン

Sunday, January 02, 2005

だれが何を語るか

 元旦礼拝と2日の主日礼拝に出席し、主任牧師の説教をきいた。その教会では説教をメッセージという。メッセージは神からのメッセージという意味で、説教をメッセージと呼ぶことにしたのだろうか。
 
  本当に神の声ならばよいのだが、人間の声をマインドコントロールよろしく神からの声にしてしまうことだけは勘弁願いたい。2005年の「施政方針」がいろ いろ打 ち出されたが、個人的恣意的なものでなければよいと願う。伝道第一はそうであろうが、牧会的施策や悩める者への配慮の施策(ケア)が何も感じ取れない、聞 き取 れないのは自分だけか? このように発言すると、“不信仰”、“不従順”の言葉の下に切り捨ててしまわれる寒い世界がある。
 
 “誰が語るか”、語る人物を問題にするのではなく、“何を語るか”、語られる内容を問題にすべきというとらえ方が基本であろうが、教会の説教/メッセージだけはそのように受け取れない。やはり語る人の人となりが大きくもの言う。

Saturday, January 01, 2005

2005年はじめ

詩編1編

悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。

このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

悪しき者はそうではない。
風の吹き去るもみがらのようだ。

それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪人は正しい者のつどいに立つことができない。

主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。