2004年の締めくくり
2004年最後の日の箴言は31章から。
「だれが賢い妻を見つけることができるか。
彼女は宝石よりもすぐれて尊い。」
いまわが妻はお節料理を作っている。それだけの健康と思いがあることを感謝!
ウイリアム・バークレーの「1日1章」から想う:
12月31日のページは「終わり」というテーマである。そのページから引用する。(柳生直行 訳)
人生には終わりがある。それがいつくるか、だれも知らない。だから人生はつねに、「いまがそのときだ」といっているのである。
人生には終わりがある。
人間に与えられた時間には限りがある。だからきょうできること、またきょうすべきことを、あすにのばしてはならない。あすという日があるかどうか、だれにも分からないからである。
。。。
人生には目的がなければならぬ。
telosというギリシャ語は「終り」を意味している。が、それだけではない。「目標」、「目的」、「完成」という意味ももっているのである。
われわれはその意味の"end"(「目的」)をもっていなければならなぬ。人生はいろんな横道を目的もな歩きまわる、といったものであってはならない。目的がなければ、漂流するほかはない。
目的をもつとき、人生は巡礼の旅となるのである。
人生は最後までわからない。
あと一歩というところで思わぬ災害が襲ってくることがある−−これが人生のこわさである。。。。最後まで警戒を怠ってはならない。
最後の目的は神に会うことである。
「なんじの神に会う備えをせよ」とアモスはイスラエルにいった。時間の終りは永遠である。人生の目的は神である。人生の最後の一歩は神の現前にいたる一歩である。
なんというすばらしい完成であろう!
アーメン!
教会論 … 古代における教会論
1 教会は霊的な共同体であって、この世における神の民としてイスラエルに取って代わるものである。
2 すべてのキリスト者は、出身・背景の違いに関係なく、キリストにあって一つである。
3 教会はキリスト教の教えを蔵しているところである。
4 教会は世界の信実な者を一つに集める。それはその人々が信仰と聖性において成長できるようにするためである。
fm A.E.マクグラス「キリスト教神学入門」p650
アグスティヌス:
教会は聖徒の集まりとなるように意図されたものではなく、聖徒と罪人との「混合した共同体」なのである。 fm p653
宗教と信仰
司馬遼太郎のエッセイ全集を昨年末 から読んでいる。非常に広い分野について深く教えられることが多い。この歳まで浅学の身できたことに恥ずかしさを感じさせられる。つい最近読んだ箇所に 仏教のことがあった。随所に彼の仏教に関する含蓄が出てくるが、今回の箇所は特に考えさせられる。
現在日本で信仰されている仏教は、原 始仏教すなわちインド仏教とはたいへん違ってきている。中国を経由して日本に入ってきたときにもうすでに大きく変っ ていた。それに加えて日本で歴史を経るにつれて、多くの仏教僧によってつくられてきたという。司馬氏だけの説ではなく、他の資料や研究者たちによっても日 本仏教は原始仏教とは大いに異なっていることが指摘されている。
司馬氏によると: 一番基本的なこと死については、人が死ぬと全部「空」になる。本来、生身のあいだは解脱を目指し、死ねば「空」に帰すと いうのが仏教。霊魂というものは仏教にはない、と断じている。仏教とお墓は関係がない。とも述べている。わたしはこの司馬 遼太郎の見方が正しいと思う。それがどうだ、多くの現代人にとっては仏教に一番関係が深い事がお墓であり、遺骨や戒名である。
門外漢で ある者が、仏教について云々するのはまことに失礼とはおもうが、それはキリスト教についてもそのようなことがあると思うからだ。いまはクリスマ スの季節。クリスマスにちなんで行われている多くの事柄が、本来のキリスト信仰とは関係がないことはお互い承知の上であろう。しかし、クリスマスではない 大切な信仰や教会、教義や説教についてもどこかで違ってきてはいないか?
それでも信じるキリスト信徒たちの「頼るところ」は聖書であろ う。でも聖書の内容も写本や編纂、訳文によって変化している。解釈に違いもある。われわれ の神が神として働かれ存在を示されるのは、やっぱり祈りを通してしかない。祈りをとおして、祈る者の心に触れ動かし、また人の思いや外部の事象にも働いて くれなくて は神ではない。
きょうのことば
「こころの楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」
しばらくブログ試運転を兼ねて箴言から一日一言を取り上げている。日にちと同じ箴言の章から。。。
まだ。。。
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」
「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である。」
箴言
「人は口から出る好ましい答えによって喜びを得る。時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。」
はじめて
きょうから自分自身の思いをこころある人に問うことができる、飾らずに率直に。